汚れ無き狂宴
 

 
 それは夏のジメジメと蒸し暑い夜の出来事。

 ふらりと気紛れに散歩をしていた彼女が見つけたモノ。

「ねえ、楽しい?」

「……なワケあるかよ」


 大通りの街灯から溢れる光も届かない、薄暗い路地裏に彼が居た。

 傷だらけの身体に衣服はボロボロで、着ると云うよりも既に張り付いていると表現した方が正しいかもしれない。

「けんか?」

 路地の壁に瀬を預け座り込んだまま動かない彼の前に、彼女が静かに屈み彼の顔を覗き込む。

「いんや、逃げてきた」

「何処から?」

「知らね」


 閑散としたその路地に、二人の小さな声が大きく響いて奥へと消える。

 短い言葉のやり取りだけで彼の息は直ぐにあがって、ずるりずるりと次第に身体は横へと倒れて。

「ふうん……動ける?」

 こてん、と傾げられた彼女の首。

「と、思うならその頭の中に何を飼ってんだか」

 彼はハンッと鼻で笑って蔑むけれど。

「面白いこと言うね。決めた、家においで」

 新しいおもちゃを手に入れたかの様に微笑んで。

 有無を言わせず発せられた彼女の宣言。

「……はっ!?」

 困惑する彼を気にもとめず勝手に決めた彼女が、ふわりと揺れるワンピースのポケットを探り取り出す携帯。

 何度か軽く操作して耳にあてれば直ぐに回線が繋がった。

「あ、深奈? ……うん、竜ちゃん連れてきて欲しいんだ……え…………違うってば、そうじゃなくて……えー? うん、じゃこの前の路地裏で待ってる」

 彼の見つめるその先で短い通話を終えた彼女は再び携帯をポケットへと戻し、彼へとその白い手を差し伸べる。

「起きて。流石に寝たままじゃ連れてけない」

 痛みと気ダルさを押し隠しのろのろと彼女の掌に重ねられた彼の手は、不気味な程に青白く。

 けれど彼女は気にしない。

 御世辞にも健康的とは言えない彼のガリガリに痩せ細った手を握り締め、笑う。

「ぼくは送華(ソウカ)。お兄さんの名前を教えてくれる?」

 彼女に引き起こされて、苦笑と共に彼の口から言葉が漏れた。
「……那智(ナチ)だ」



**********



 街灯の光が届かない路地裏、彼と彼女の声だけが響くその場所で。

「送華」

 彼女の名を呼ぶ声と共に隻腕の男の影が二人を包み、その後ろには毛足の長い大きな犬。

「アリガト深奈(ミナ)。竜ちゃん、この人乗せてって?

 立ち上がり男に近付いた彼女が、さも当然と犬へ声をかけたなら。

 もそりと犬が動き出し、立ち上がることすら出来ないで居る彼の襟首を咥えて。

「……竜、怪我人にその乗せ方はおやめなさい」

 何をしようとしたのかを察した男が寸でのところで犬を制し、片方しか無い腕で彼を犬の背中へと器用に引き上げつつ彼の耳元に薄い唇を寄せ、落ちたくなければ掴まるようにと囁き離れる。

「それじゃ、行こう」

 彼が犬の首周りに腕を回してしがみついた事を確認した彼女が号令を。

 けれど歩き出そうとせず、彼女は男へ向い両腕を差し伸べ笑うだけ。

 それが日常となっているのか男は何をと問う事も無く、ただ黙ってその腕で彼女を優しく抱き上げた。

 身体に纏わりつく夏特有の湿気。

 彼を乗せた犬と、彼女を抱えた隻腕の男が固まっていれば嫌でも目立つ。

 夜の夜中であったとしても、夜行動する人種は何処にでも存在しているのだ。

 時折向けられる奇異の視線に晒されつつも、彼と彼女と男と犬は気にせず進む。

「お前いい毛並みしてるなー」

 彼は犬が気に入った。

「しかもオレ乗せて平気で歩けるなんて」

 凄い凄いと嬉しそうにはしゃぐ彼を見て、後ろから彼女と男の笑い声。

 低く響く温かい男の音と、夏の暑さを紛らわせる風鈴のような彼女の音が重なって、彼の耳に優しく届く。

「竜ちゃんが良いなら、一緒に行動すればいいよ」

「貴方はどうやら足が動かない様子ですしね」


 二人の言葉に驚きを顕にしながらも、彼は犬へと更に強く抱きつき強請った。

「な、な、オレ足の動かし方解らないんだよ。だから一緒に居てくんねぇ?」

 序に移動の合間の暇潰しと称して、彼が何故あんな場所に居たのか。

 そして動かない足でどうやって移動していたのか等々を、犬の背中で話し続ける。

 前に居た場所は何なのかに至っては彼にも解らなかったけれど、実験施設のような建物ではあったと彼は言う。

 とても笑顔で話せる内容ではない気もするが、目の前にある犬の耳が言葉に反応してピクピクと小さく動く様子を見ては喜ぶ彼に、彼女も男も何も言わずにただ彼の言葉を聞く。

「名前呼んで良い?」

 彼のその声は彼女に対してでも男に対してでもなく、犬に対して放たれた。

「……クッ」

「うわっ」


 それに思わず吹き出してしまったのは、男。

 笑った拍子に彼女を落としそうになってしまって、慌てて体制を整える。

「失礼…」

 きょとんとした表情で振り返り、男を見つめる彼に何でも無い事の如く取り繕ってはいるけれど、彼女にはしっかりと笑っていることが伝わっていた。

「深奈…揺れて不安定」

 三人と一匹の集団は見た目の異様さに反し、中々楽しく和気藹々と進んで行く。



**********



 彼が彼女に拾われて、彼の時間は飽く間も無い程に忙しく過ぎ去っていった。

「えー!? 嬢ちゃんそりゃ無いって! 旦那も何とか言ってくれ」

「うるさーい、しらない、深奈に言っても無駄なんだから」

「送華は頑固ですからね、もう此方が折れるしかありませんよ。諦めてください


 彼女の家にすっかり馴染み、常に犬の傍で行動し彼女と些細な口喧嘩をしては男に笑われ諌められ、拗ねて折れて仲直り。

 そんな日常に慣れた頃、彼はふと気付いた事がある。

 彼女が時々する不思議な行動。

「深奈、愛してるよ」

 ソファに座る男の膝に馬乗りになり、そう囁きながら男の喉へと噛み付くのだ。

 歯の跡が残るなんて優しいものではなく、男が呻くたびに上下するソレを喰い千切ろうとでもするかの如く、強くキツく血の跡が滲むまで離す事は無い。

 男も抵抗する素振りすら見せずに好き勝手させている。

 この時ばかりは彼の事など彼女の思考からキレイに弾き出されてしまって。

 彼はどこかもやもやとした気分で犬の背中に顔を埋めては、彼女が満足して男から離れるのをただ待ち続ける。

 愛していると囁きながら、ともすれば相手を殺してしまうかもしれない行為を平然と成す彼女も、それを当然の事として抵抗する事なく受け入れている男の事も、彼には理解が出来なかった。

「愛してるよ、深奈……だからいつか、全部頂戴」

 腕一本じゃ全然足りない。

 彼女は男にだけ聞こえるように囁いたつもりでも、近くに居た彼の耳にもしっかり届いてしまったその言葉。

 男の腕が片方しかないのは、事故か何かだと思っていたのに。

「送華……那智が怯えています。今日は」

「だぁめ。だって那智も愛してるもん、じゃなきゃ拾わない」


 怪我をしていて血塗れな彼の姿に一目惚れしたの、なんて可愛らしい彼女の告白。

 それなのに彼女は彼に見せ付けるようにして、何度も滲み出る血を舐めとってはまた男の喉へと喰らいつく。

 極上の笑顔を浮かべたまま。



**********



 ある日彼女は犬と一緒に散歩に出掛け、家の中には彼と男の二人だけが。

「那智、少し話をしましょう」

 犬が居ない為ソファから動く事が出来ない彼の隣に、盆のまま珈琲カップを差し出した男がゆっくり腰を下ろす。

 彼がこの家へと来た次の日に、彼女が購入してきて自ら大きく“なち”と平仮名で可愛らしく書いた、彼専用のカップ。

 同じく盆に乗っていた男専用のカップには、はやり平仮名で“みな”と書かれていた。

「どうしたんだよ、旦那が畏まってなんて珍しい」

 盆から取り上げて両手で包むようにして持てば、珈琲の良い香りに思わず目を細めて。

「最近貴方、送華の事を怖がっているでしょう?」

「別に…旦那と嬢ちゃんがどんな関係だろうと、居候のオレには関係無いじゃん?」


 彼が珈琲を呷るその仕草に、男の表情が僅かに歪む。

 男の珈琲はソファと対になっているロウテーブルの上に置かれたまま、手をつける気配がない。

「何か、企んでるとか」

 全くカップに手をつけようとしない男を見て、さては珈琲に何か盛ったのか、と。

「まさか」

「んじゃ何? その表情、気持ち悪い」


 ちろりと彼が横目で睨めば、肩を竦めた男も珈琲を一気に喉へと流し込む。

 ふっと軽く溜息を漏らし次いで男の口から出てきた言葉に、彼は思わずカップを取り落としそうになってしまった。

 それだけ、驚いたのと何を言っているのか一瞬理解できなかったのと。

「竜を連れて行って構いません。アレも送華に拾われた。送華に囚われてしまわないうちに、この家から逃げなさい」

 何故男がそんな事を言うのかが、彼には全く解らなかった。

 けれどあまりにも真面目な表情と優しい声で言うものだから。

「理由、聞いても?」

 もし逃げて男に何か降りかかる災いがあるとするならば、彼は逃げないでいようと決めた。

 即決…だったのだけれどその時は、間違いだとは思わなかった。

 黙って見つめた少し上にある男の顔に浮かんだ、苦悶の意味を知るまでは。



**********



「那智が逃げ出したって言う施設ね、ぼくも居たんだよ」

 朝目覚めた彼と顔を会わせ開口一番にそう言った彼女の笑顔があまりにも綺麗すぎて、うっすらとながらも恐怖を感じてしまったのは仕方が無い。

 男が言っていたのはこの事なのか、と彼は今更ながらに思う。
 二人で会話をしてから数日、彼女の男に対する行動がエスカレートしていった。

 彼が見ている目の前で、男が纏う上着を大き目のナイフを使いズタズタに切り刻んで。

「ぼくもあの施設から逃げ出した、深奈が連れ出してくれたの」

 赤い赤い唇の端を吊り上げ笑いながら、抵抗しない男の露わになった肌を切りつける。

 勿論彼女には、致命傷を与える気なんて欠片も無く。

「ほら、きっと那智も身体の何処かに在る筈だよ……これと同じのが」

 見た事あるよね? とスカートの裾を捲り上げ、彼女が示したソコにあるのは黒い線の集合体。

「深奈にもあったの。でも腕だったから、取っちゃった。だって深奈はぼくのだもん」

 彼女に肌を切り刻まれている男は、眉を寄せて苦痛に耐えているけれど。

 その口からは悲鳴も呻きも何も漏れる事は無く。

「嬢ちゃん、もう止めろ」

 耐え切れなくなった彼が静止の声を発しても、彼女の行為は止まることを知らない。

「ねぇ深奈、もっとぼくを睨んでよ。もっと苦しんで?」

 あの時男は言っていた。

 彼女の口から“愛している”と直接言われてしまったら、もう逃げられないと。

 けれどたったひとつだけ、一時的にではあるけれど解放される術がある。

 もしも彼女の“愛し方”が、彼と彼女と男の居た施設の所為であるのならば。

「なあ嬢ちゃん……そんな男より、オレの事を愛してよ」

 彼女の足元まで這い摺り寄って縋りつく彼に、男が叫ぶ。

「止めなさい、駄目だ!」

 彼がされてきた事と同じ事をされていたとしたら。

 きっと彼女のココロは彼よりも男よりも、ずっとずっと脆かったのだろう。

「ね、オレを愛して? 全部あげるから」

 愛していると囁かれ続けて。

 その度に身体中を切り刻まれていたのだから、彼女がこの愛し方しか知らないのは当然で。

 逃げろと言った時男が表情を歪めたのは彼のこの行動を、あの時既に読んでいたから。

「オレな、心臓二つあんの。バーコード刻んだのを入れられた。嬢ちゃんが取っていいから、オレを愛してよ。イイだろ?」

 馬鹿な事をと呟く男の声は、聞こえないフリをした。

 彼女に致命傷を与える気が無かったとしても、何かの拍子にナイフが深く刺さってしまったら、冗談では済まされない。

 一緒に暮らしたのはごく短い時間でしかないけれど、彼女には男が必要だともう解っている。

 彼女に拾われなければどうせあの薄暗い路地裏で、野良犬共に喰われていただろう。

 それに比べればなんと幸せな事か。

「全部、くれるの?」

「全部やる。愛してくれる?」


 男から離れて彼の前に膝を着いた彼女が不安気な表情で問うものだから、僅かな間すらも置かず彼は頷いた。

 もう彼女の耳に男の制止は届かない。

 彼の首に腕を回して彼女は囁く。

「那智、愛してるよ」

「オレも愛してるよ、送華」


 彼は少しだけ男の存在を気にしながら、彼女は既に男の存在を意識の外へと追いやって。

 互いに何を考えているのか解らないままに、そっと唇を寄せ合い笑う。

「送華! そんな事の為に那智を拾った訳ではないのでしょう!?」

 けれどさせまいと叫ぶ男の声で、重なる寸前に止められてしまい彼女の顔が不機嫌に歪んでしまった。

「煩いよ深奈」

 今まで一度たりとも聞いた事の無い、低い声を発した彼女は彼から離れて再び男の前へ。

 手にしていたナイフは床へと落とされ、ポケットから変わりに取り出された小さなケース。

「ちょっと寝てて」

 中へと収められていた注射器を取り出して、男の反論は全て彼女の唇が飲み込んだ。

 動きを封じて傷だらけの男の腕に、針を突き刺して中身を全て打ち終わってからワザとゆっくり身体を離して。

「大丈夫、意識は飛ばない。追って来れないようにね」

 彼女の持ち出した薬で動けなくなった男をソファへと寝かせ、彼と彼女は散歩でもするかの様に外へ。

 彼を乗せた犬を彼女が誘導し、入り組んだ裏道を進み続ける。
 人目の無い方向へと、迷わずに。

 大人が二人、横に並べばいっぱいになってしまうような道や、ぐねぐねと曲りくねった道でさえ、彼女の前では広く真っ直ぐな道に見えているのかもしれない。

 彼と彼女の間に会話は無く、ただ歩き続けたその先に漸く見えた古い建物。

 鉄筋と木材とが混ざったような不思議な廃ビル。

 コンクリート部分には黴が蔓延り、木の部分には苔が所狭しと敷き詰められていた。

 腐り落ちそうな壁や床、扉を抜けたある一室で彼女の足がピタリと止まり、彼へと振り向き笑顔を見せる。

「ココはぼくのお気に入りの場所。竜は深奈の所へ帰っててね」

 犬の背から彼が降りるのを手伝いながら、彼女が犬へと言い聞かせて。

「ホラ那智、その床が崩れた場所から覗いてみなよ」

 部屋から犬を追い出した彼女が、彼を手招き崩れた床を指し示す。

 彼女に言われるがままに、その下を覗き込んだ彼が目にしたソレは、階下の床から突き出た棒切れの針山。

 彼女が何をしたいのか、彼は気付いた。

 気付いてそれでも何故か逃げたいとは思わずに、彼女に向かって静かに笑みを浮かべて。

「愛してる。ちゃんとオレを愛してくれよ?」

「那智も、ぼくだけを愛してね。愛してるよ」


 崩れた床に腰掛けた彼が彼女に口付けを強請り、笑って応えた彼女との、コレが最初の口付け。

 軽く触れるだけのソレは直ぐに離れて、彼と彼女が口を揃えてただ一言。

「愛してる」

 最初で最後の彼と彼女の二重奏、至近距離で微笑を浮かべたその瞬間に。

 彼の肩、腕、足、腹、身体中のあらゆる箇所を階下の棒切れが串刺しにした。

 幸か不幸か…即死に至る部位は全て避けて。

 そんな彼の様子を確認した彼女は、満足気に笑み崩れた床に背を向け歩き出す。

 彼の待つ階下へと向かう為。