炎を纏うい鳥    遠い過去の幻影
 

 
 あまり上等とは言えない宿の一室、ふと目覚めれば視界いっぱいに広がる肌の色。

 出逢ってから幾月が過ぎ去ったのか。

 いつの頃からか宿が取れた日にはこうして抱き合い、眠るようになっていた。

 背に回された腕が温かくて単純に、ただ嬉しいと。

 何となく口付けたくなって見上げれば上下する喉仏に気付いてしまい、呆れが思考を支配していく。

「寝たフリなんかして、私の悪戯を待つつもり?」

 とん、とその胸元に手を置き問うたなら見つめる先でゆっくりと瞼が開かれて。

 微かな光を反射して輝く、藍。

「抜け出されたら、寂しいだろ」

 ああもう何を子供みたいなと呟いて、けれどあまりにもハッキリとしたその声に、随分前から起きていたのだと諦め口付け。

 憚るモノなど何もなくふわふわと啄ばむだけの口付けに、時折漏れる密かな笑い。

「ハクオウ?」

「なあに?」


 不思議そうに呼ぶ声に、太い首へと腕を回して縋りつき脚を絡めて甘えてみせた。

 基礎体温の高い“混じり”同士、少し肌寒い夜明け頃は互いが互いを抱き締め過ごす。

 素直に心地良いと、もう時々思い出して話す程度には過去になった頃の出来事を、ふと掘り起こして耽っていたなら。

「また比べてんのか?」

 素肌の背に軽く爪を立て抗議する大の男が、光を遮り黒く変じた眸で知らない影に嫉妬の色を隠そうともせず覗き込んでいて。

 確かに記憶の中に在る姿と、目の前で拗ねる男の姿は似ても似つかないし、声だって違う。

「比べるも何も、アナタとアナタをどう比べると言うの?」

 それでも例え姿形がどれ程に変わってしまおうが、求める者には違い無いのだからと。

 男にとっては記憶の無い時間など他人事でしかないのだろうけれど、だからこそ。

「アナタこそ、そんな私を選んだのは何故?」

 事ある毎に遠い記憶に耽り、過去と今と比べてしまうのに。

 なんて少し意地の悪い問いかけに、バツが悪そうに視線だけが外されて。

 仕方なしに首へと回す腕の力を少し弛め、呼吸に併せて揺れる胸に額を擦り付け音を聞く。

 規則正しく刻まれる、鼓動。

 ああ、この男はまだ生きているのだと安心できる、暖かい音。

 そこに混ざる小さな振動。

「婆が、言った」

 頭上で落とされた溜息の後、聞き取れるかどうかのそんな声。

 胸に押し当てる顔を少しだけ離して先を促す。

「守巫女が言えば、誰でも良かった?」

「違う。婆が言ったのは、そうじゃない」


 背にあった筈の手が気付けば頭を抱え込み、強く抱き締められてハッキリと聞こえる心音が、少し早くなっている事は黙っておこうか。

 だって男が照れる姿などそう簡単には見られない。

「俺がまだガキで婆の所に居た時に、何度も繰り返し言われてた」

 お前の為に全てを投げ打った彼女を忘れてはならない、いつか必ず出逢うその時に。

 変わり逝く記憶などに頼る事なく、お前は彼女を知るだろう。

 何処に居るのかは解らなくとも、いつ出逢えるのかなど知らなくとも。

「彼女はお前を見つけるだろう。寝物語だったなぁ」

 普段は出す事の無い低く静かな落ち着いた声と、最後は忍び笑いで締めくくり。

「それにな、ハクオウが言ったんだぞ?」

 鼓動の上に唇を押し当てたところで、ついでのように付け加えられた男の台詞に。

 一瞬考え込み首を捻りひとつ、ああそういえば、と思い出した。

 男が言葉を発する為に息を吸い込み胸が軽く膨らんで、吐き出されるその瞬間をそっと窺い浮かべた笑み。

『やっと見つけた』

 自然と重なる二つの声に、驚いた男が肩を掴み力任せに引き剥がす。

 指が食い込み痛んだけれど。

「“どうか私を、アナタの傍に”」

 きちんと覚えているからね、意地悪してごめんなさいとの意味を込めて先を引き継ぐ。

 何か言いたそうに開閉される口元に、指を一本立てて押し当て先を封じ込めたなら。

「“義務とは思わないで、重いのならば負わないで、私をアナタの翼にして”」

 出逢った時に言わずにはいられたかった言葉たちをもう一度、繰り返して解放した唇に。

 衝動を抑えきれなくなって噛み付いた。

 色気なんて必要ない、飢えた獣が捕らえた獲物を貪るように。

「ちょ、ハク……」

 驚く男の事など無視をして、僅かな呼吸すらも逃したくはないのだと。

 気が付けば男の腹に馬乗りで押さえつけ、それでもまだ足りないと喰らいつく。

 痛い程の口付けとも云えない、口付け。

 もういっそ、このままグズグズに溶けてしまえたら良いのに。

 喰らうのではなく喰らいつくされ犯した罪諸共、その腹の中でドロドロに跡形も残らない程。

 浅ましい囚われた胸の内とは裏腹に、背を抱く男の手は子供をあやすように上下する。

 その動きに誘われるまま、ゆるゆると沈静化していく思考。

 微かに空いた隙間のほんの一瞬。

「……気ぃ済んだか?」

 至近距離で笑いながらの男の吐息。

 合わない焦点と惚けた頭では、言われたことが理解できず。

片手を伸ばし苦笑しながら布切れを引き寄せる、男の行動をただ見つめるしかなくて。

「よっ、と」

軽い掛け声と共に男が上体を起こし、腹に座っていたのだから自然膝へと落とされる。

そのまま身動ぎすらもできない程強く抱き締められて、見えるのは男の肩越しに窓の外。

凭れかかり目を閉じたなら、耳元で低く聞こえる獣の唸り。

「言っておくけどな、今更ハクオウ以外なんて要らねぇぞ?」

仄かに明らみ始めた朝特有の澄み渡る空気に震え、ゾクリと軋んだ背筋を指が辿り腰から項へ。

無骨な指が背骨を柔らかく押し上げる度、無意識の内にしなり仰け反る。

目の前に曝け出された鎖骨の窪みへ、男が牙を突き立て甘噛みを。

「お前が望むなら、俺は記憶を飲み込むよ。何度だって昔の俺を取り戻す」

だから不安まで負う必要は無いのだと、諭すよう囁き続ける男の声に。

「うん……ありがとう」

静かに呟いて唯一滴頬を濡らし、男の舌へと吸い込まれた。